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移住者インタビュー


最近すっかり寒くなってまいりましたね。
現在東京からこのブログを書いております。

突然ですが、島の不動産サイトをオープンしました。
島に住むから「島ズム」といいます。宜しくお願いします。
サイトはこちらから→http://shimazumu.amamin.jp/

不動産を通して島暮らしにまつわる色んな情報をお届け出来たらと思っています。

■キッカケは人口減少

島の人口が毎年減ってきているようです。
あと10年したら無くなってしまう集落もあるかも。
どうしたら減少に歯止めがかけられるのか、抜本的な解決策がないまま日々が過ぎ去っている様にも思えます。

しかし人口減少は何も島だけでなく、日本全体が減少しているます。
だから島に住む人が少なくなっていくのは仕方がない、、、のだろうか。。。


そんな疑問と向き合うために島ズムをオープンさせました。
まずは色んな人に話をきくところから始めたいと思っています。


▲2040年の将来推計人口 奄美人口8万2千人(奄美新聞より転載)


島に住む!という事はどういうこと?

・島に住むメリット・デメリット。
・Iターンの受け入れ体制について。
・集落の行事、伝統文化の継承について。
・集落(シマ)に住んだらいろいろな行事に参加しまい?
などなど、今までありそうで無かった実にシンプルな疑問を解決、掘り起こしてみたいと
思っています。


今日は移住者との対談の様子をご紹介いたします。
原文はこちら→http://shimazumu.amamin.jp/e394258.html


■移住者インタビュー(勝さん)

勝眞一郎さんは、大学教授とコンサルティング事務所を経営されている49歳。小学校3年生まで島で暮らし、その後、島外で生活をしていました。現在は、笠利町にある「奄美市ICTプラザかさり」という情報通信産業インキュベート施設を拠点に、島の情報通信産業の活性化のために日夜奔走されています。2012年4月から神奈川県藤沢市の自宅と、奄美大島・笠利町の小さな集落「万屋」との間を毎月半々に行き来する「二地域居住」を実践中です。

幼少期は島で住んでいたこともあり、子供の頃から島の気候や文化には慣れ親しんでいた勝さん。移住者に対する島の人々の考えと、移住者側の気持ちの両方に触れている勝さんに、Iターン移住の現状、実際に住んでみて気がついた点などを伺いました。

■大家さんが、地元コミュニティへの接点に

編集長(以下:編):まずはじめに、今お住まいの家について教えてください。

勝さん(以下:勝):一般的な二階建ての二世帯住宅です。一階に大家さんが住んでいて、二階は大家さんの御長男一家が住む予定だったのですが、しばらく使わないからとのことで、人づてに紹介してもらったのが住んだきっかけです。



事務所から近いこと、大家さんが居てくれることが、この家の大きなメリットです。ネット環境はADSLで遅いですが、下りで7Mbpsくらい出ています。

編:大家さんがいるというのは、住むにあたって大きかったですか?

勝:私は、内地と島の半々の生活です。例えば台風が来た時に、「雨戸をお願いしてもいいですか」と電話でお願いできるのは助かります。それと、大家さんを介しての近隣コミュニティとの接点は大きかったと思います。もし一軒家を借りていたら、わからないことを誰に聞いていいのか、それすらも最初はわからない状態だったと思います。


▲勝さんにご自宅を見せて頂きました。手作りバーカウンターが素敵です♪

編:不動産を探す際に、内地との違いは感じましたか?

勝:物件が圧倒的に公開されていないですね。ネットで探そうとしても全然出ていないので、何軒かの不動産屋さんに直接聞いてみました。すると、あるにはあるのですがメチャクチャ高い。結局人づてで、五人ぐらいを通じて今の家を探し当てました。

物件があっても見ず知らずの人には貸しづらいというという島の人の気持ちもわかります。そこで例えば、移住者支援事業などで半年間くらい「お見合い期間」じゃないけど、移住者の人に対するお試しの宿泊施設と期間を設けて、その後、本格的に移住をする制度があってもいいのではないかと考えています。集落の人もその人のことが少しわかるし、移住者もその集落のことが少しわかります。

■奄美の海は最高です

編:実際に住んでみて、奄美の気候風土、生活はいかがですか。

勝:向こうでは神奈川の海沿い、湘南の藤沢に住んでいるので結構気候は似ています。湿度が高くていろんな物が黴びるのは大変だけど、朝晩は風があって窓を開けっ放しにすれば快適。今こちらで住んでいる家では、朝はカワイイ鳥のさえずりが聞こえるし、夜はフクロウ、それに満点の星空が広がる。奄美に来て、わざわざ旧名瀬市内に住む理由がわからないですね(笑)。

台風については、私は馴れているので大丈夫でしたが、かみさんが泣きそうになっていました。昨年は大きな台風が三回来て万屋は三回とも停電しました。台風が去った後の集落では停電はお祭りみたいなものです。みんなで大きな自家発電機があるお宅に集まって飲むんです。自家発電機をガーッと回して、飲むしかないねー、などと言いながら(笑)。

編:勝さんはサーフィンをされるそうですね。島でも楽しんでいるんですか?

勝:8年前、藤沢に引っ越した頃からやっています。うちから近い奄美北部ではリーフが多いので、満潮の時間を狙ってやっています。満潮の時が朝になったら朝に海に行って、それから仕事に行く。夕方だったら夕方に仕事が終わってからサーフィンをする。そんな生活です。こっちの美しい海に入ってしまうと、人がたくさん居て水も澄んでいない藤沢の海に入れなくなってしまいました。それは弊害かも知れません(笑)。


▲ご夫婦でサーフィンという共通の趣味を持っているのも島を楽しむ秘訣かも!

編:藤沢も海と自然に囲まれていて関東では人気の場所ですね。ご近所のコミュニティという面では、藤沢をはじめとした内地と島は違いますか。

勝:旧名瀬市内であれば、基本的にはそれほど変わらないと思います。万屋のような小さな集落に住む難しさは、もともとコミュニティが「人があまり動かない」ことを前提につくられていることなんですね。

東京などの都市近郊では人が出たり入ったりするのが普通で、「引っ越してきましたー。」と言って隣近所に洗剤でも配ればそれでいいのですが、こちらでは基本はヨソ者は入らないわけです。そこに移住者が入ってくると、町内会のことや清掃活動のことなど、島の人にとっては当たり前のことを一つ一つ教えなければならない。でも、島の人もたまにのことなのでどうやって教えたらいいのかわからず、困惑してしまうケースも多いようです。

■島の「濃い」人間関係を楽しむ

:勝さんは実際にそうしたご近所付き合いを体験してみて、大変さを感じましたか?

勝:大家さんを介してコミュニティとの接点を持てたのはよかったと思います。付き合いは「大変」というのとは違うけれど、他の土地よりも濃いのは確かですね。まだうちは半分しかこちらに居ないから参加率も低いのですが、やはりずっと居ると人付き合いは濃いと思います。これは、島に限ったことではなく、世界中の田舎で普通に起きていることですけどね。都会で人付き合いに疲れて島に来ると、余計に人付き合いが濃くて疲れて帰ってしまうとか、そんな返り討ちの事例も聞いています(笑)。

編:とはいえ、そうした人間関係が島の魅力の一つとも言えますよね。

勝:祭りや集会など、集落ならではの行事をいかに楽しめるか。面倒だと思えば本当に面倒に思えてきますから(笑)。集会に行けば面白いおばちゃんもいるし、おじいちゃんもいる。とにかく島の人が断然面白い。普通の人がいないので、飽きないんです。その辺りを楽しめれば、集落の生活にも馴染めるのではないかと思います。それと、移住をする時は「住む」というよりは「コミュニティに入る」という感覚を持って来ることが大切だと思います。

当然、受け入れる集落側の人もコミュニティ教育担当の係を決めておくとか、カリキュラムを作っておいて、初心者には六月燈の手伝いの準備をしてもらうとか、馴れてきたら司会をやらせてみるとか、新しい人が輪に入りやすいようなシステムを用意しておいたほうがいいでしょうね。観光にしても移住にしても、外からの人をどれだけ受け入れるのか、受け入れないのかは、各集落が自分たちで考えて決め、決めたことに対しては対処していかなければなりません。

編:町内会の集まりというのはどのような感じで行われるのですか?

勝:万屋だと、月に一回です。行事、会計、それに清掃活動の日程とか、今度のあやまる祭りに舟漕ぎのチームを出しますとか、そういったことをロの字型にみんなで集まって、区長さんと役員の方が話をします。お酒は飲まずに、真面目な連絡会といった感じです。



▲木のぬくもりと海からの潮風で南国テイストが感じられる室内

編:奥さんは東京のご出身とのことですが、向こうのコミュニティとの違いは何か話されていましたか?

勝:藤沢では夫婦で町内会の役員をしていました。こちらでは新参者だし半分いないので、あくまで参加者です。宴会の場は特徴的ですね。島では男女別々に座りますよね。婦人部の中では、島口が基本ですから半分くらい何を言っているかわからない。でも若い人たちは標準語なので、そこが救いだと。(笑)男性陣は飲んでいるからワーワーとなれるけど、女性陣は料理を手伝わなければならないので大変ですね。最初のうちは、お客様扱いで男性陣と飲みながら、ちょこちょこと台所をのぞきに行く程度で徐々に慣れるのが正解なのかもしれません(笑)。

■行事に誇りを持って受け継ぐ



編:最近はSNSなどを通じて、島を出て行った若い人たちが「島の良さ」を再認識する機会が増えているように思います。「島の煩わしさ」がイヤで島から出て行く人もいると思いますが、今はこの「煩わしさ」とは何なのか、本当は良いことなのではないかと、考えることがあります。

勝:それは、人口減少と高齢化の島では真剣に考えないといけないことです。たくさんの行事をどうしていくのか?ファミコンやLINEなどの娯楽に時間を費やす子供たちに祭りの楽しさをどう伝えでいくのか?今、ちょうど分岐点に来ています。
島の行事や習わしをどういう「意味」で続けているのか、一度振り返る機会が必要かも知れません。ちゃんと行事の「意味」を理解して意識的に受け継ぐことはとても重要だと思います。祭りも「意味」をきちんと知って参加する。そうしないと、だんだんと古き良きモノが簡略化、省略化などという名目で消滅していってしまいます。一旦消滅したお祭りを復活させるのは人口減少が続く中では、不可能と言ってよいでしょう。「煩わしさ」ではなく「意味を受け継ぐための誇らしい行ない」だと意識転換しないと、他の土地でお祭りが無くなっていった同じ道を歩むことになるでしょう。

編:今日はどうもありがとうございました。

勝:ありがっさまりょーた。


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http://shimazumu.amamin.jp/






【対談】建築家山下さん



屋仁小→赤木名中→大島高校卒業後、奄美大島を飛び出し、国内外を舞台に広く活躍する建築家・山下保博さん。
10月13日(土)から12月22日(土)まで東京・南青山のTOTOギャラリー・間にて
山下保博×アトリエ・天工人展 『Tomorrow――建築の冒険』を開催中の山下さんに、
しーま編集長がインタビューを敢行!山下さんの建築に対する思い、奄美への眼差しなど、島の先輩に貴重なお話を聞かせていただきました。






編集長:山下さんは土やガラスブロックを構造体とするなど、次々と挑戦的な建築をつくり続けていらっしゃいます。
今回の展覧会と発売された書籍(『Tomorrow 建築の冒険』・TOTO出版、税込2,100円)は、これまでの活動を振り返るものということですが。



山下さん:今回の展覧会と書籍刊行の目的は二つあります。
ひとつは「山下の建築はわかりづらい」「もうちょっとわかりやすく見せて欲しい」と言われるので、それを整理する目的。
一般的に建築家は「モノ」(建築)をつくるけど、僕の場合は同時に「コト」として社会に伝えていこうとしています。だからわかりづらいと言われてしまう。「コト」というのは、僕自身が動き回る事で生まれる様々な出来事です。
「モノ」と「コト」がかけ合わさった時に立ち上がる建築とその周辺の空間について、パネルや模型、図版などを使って再構成しています。

もうひとつは、3.11の大震災以降東北をサポートしているのですが、建築家が次の時代(3.11以降)にどう社会とつながり還元していくのかという「新しい建築の姿」を見せたかった。この二つの目的を軸に構成しています。




編集長:山下さんは国内外で数々の受賞歴があり、幅広い活動をされています。失礼ながら今まで山下さんのことをそれほど知らずにいました。

山下さん:東京で分刻みで動いているから、島に帰ったら屋仁(笠利町)で魚釣りしかしていないからね(笑)。僕のやっている事って島ではみんな知らなくて、年に二回帰って親戚周りもするけど「保博は何してたっけ?」「え、建築」と、そんな感じ(笑)。




編集長:そもそも東京へ出たきっかけは?

山下さん:五人兄弟でアニキが東京にいたのもあって、まずは東京に行こうというのがありました。とにかく日本の中心に行きたかった。それで大学に行こうとなった時に、体を動かす事と絵を描く事が好きだったので、建築士がいいかな、と思いました。美術や哲学、文学などをベースに総体として表現できる建築に魅力を感じました。
その後大学院を卒業。つらーい修行時代を経て31歳で独立したものの、しばらくは食べられなかったですね。





編集長:苦労されたんですね。

山下さん:全てが苦労でした。親のコネもないし、島から出てきた自分には何もない。とにかく人と同じ事をやっていてはダメだと。今でも朝から夜まで建築のことばかり考えているけど、もう二度としたくないような苦労を人の何倍もしました。
でも、何でも一番が好きだからとにかく世界一を目指したかった。島から出て来て東京に来た時に、ああ、こんだけ世の中広いんだなと思って、さらに海外に行くと、ああ、地球ってこんだけ広いんだなと。島から出て来たら、東京も世界も一緒だと感じました。






編集長:山下さんの建築に奄美で生まれ育った影響はありますか。

山下さん:うーん。モノとして直接「奄美」が入っている建築は正直あまりないです。でも、「マクロとミクロは同列」という、僕が建築を考える際のコンセプト・本質の部分は奄美から受け取っています。
奄美は琉球と薩摩と日本とアメリカと…何度も脅かされた歴史があります。奄美は虐げられて来たけれど、逆に言えば統治をするトップたちとの距離をはかれ、常に一歩引いたニュートラルな状態をつくれるというプラスの面もあります。
それから、島が素材に恵まれているという点は大きいですね。太陽、緑、水など、原点の素材が身近にある幸せ。僕が素材の開発を突き詰めているのも、そこから来ているのかも知れません。このふたつが僕が奄美から貰った幸せかな。

ただ、建築でことさら「奄美」を表現する必要はないと思っていて、エチオピアではエチオピアの建築表現、東京では東京の、その場に適した建築表現があるはずです。その中に自分が奄美から受け取ったものが自然に含まれていれば、それでいいと思っています。







編集長:現在の奄美に対しての距離感や思いは。

山下さん:3.11以降、自分が死んでしまったらどうするかを考えた時に、島に対して何が出来るか、島に何かを残していきたい、と東北へのサポートを通じて感じました。だから今までより島に近づこうと思ったんです。ずっと東京を拠点に活動をしてきたけれど、去年あたりから九州大学の非常勤講師などもやりながら、徐々に島と繋がっていこうと考えています。まだまだ具体的にはこれからだけど、今後僕がやりたい事の中には、奄美のまちづくりを入れています。





編集長:今、奄美について思う事、島の若い人に向けて伝えたい事はありますか。

山下さん:奄美の人たちは自分の島の良さをある程度は認識していると思うけれど、やはり島の外に出て、もっともっと認識して欲しいとの思いはありますね。逆に言えば、違う視点を見せてあげられるのは、僕ら島人でありながら島にいない人間の使命だと考えています。

だから、石垣や高倉など島のモノからいい部分を抽出して、そこから奄美に対して何かを表現していきたい。できれば島の人たちと一緒にね。島の外から球を投げるのではなく、一緒に「こんなのが島だったね」というようなものを共有したいですね。例えば砂浜を復活させようとか、それはあえて「建築」ではないのかもしれません。

島の若手クリエイター組織「Shall We Design(SWD)」がデザインを使って奄美をもう一度編集し直そうとしている動き、それに「あまみエフエム」の一連の活動などはスゴくいい動きだと思っています。若い人はそういう人たちからどんどん刺激を受けて、自分の持っている「特殊性」(縫い物が得意とか歌や絵が上手いとか)を自信をもって発信していくことが大事です。それらを継続的にやっていけばいいと思います。それと何事もそうですが、上手くなる秘訣はとにかく向上心を持つことでしょうね。





編集長:確かに奄美にも面白い動きが出てきていますね。最後に、生まれ育った「屋仁集落」に対する思い入れをお聞かせください。

山下さん:ベースやね。家族って何ですかって言われるのと同じ。小さな村なんだけど、面白い人が育つ場所だと言われているよね、屋仁は。そういう意味でも自分にとって屋仁は原点というか、全て。やはり家族のようなものですね。
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さすがに同じ笠利出身ということもあり、インタビューは終始和やかな雰囲気で行われました。本文にはありませんが、一連のお話の中で心に残ったのは「ローカルからグローバルへ」という話題。

ローカルな場所に根ざし、その土地で出来る事を自律的にやっている人たちは、結果的にグローバルに広がっていく。ローカルであることは強みであり、普通にやっていることを普通に見せるだけである種のグローバルへと繋がる、とのこと。

ローカルを否定してグローバルな世界へ出るのではなく、ローカルとグローバルは表裏一体であり、その境は本来曖昧で行き来自由なのではないか。これこそが山下さんのコンセプトである「ミクロとマクロは同列」という考え方のひとつなのかな、と編集長なりに頭を絞って考えました。山下さん、お忙しい中、貴重なお話をありがとうございました!

TOTO GALLERY・MA
山下保博×アトリエ・天工人展 『Tomorrow――建築の冒険』

■会期 
2012年10月13日(土)~12月22日(土)

■開催時間 
11:00-18:00 金曜日は19:00まで

■休館日 
日曜・月曜・祝  

■入場無料




山下保博 Yasuhiro Yamashita
1960年 奄美大島・笠利町生まれ。86年芝浦工業大学大学院修了。91年山下海建築研究所設立。95年事務所名をアトリエ・天工人(てくと)に改称。99~2011年芝浦工業大学、東京大学大学院、東京理科大学、慶応義塾大学大学院にて非常勤講師。11年より九州大学非常勤講師。
主な受賞歴
2004年 ar+d award(国際新人賞)2004最優秀賞、釜山エコセンター国際設計競技1等。08年ARCHIPARCHITECTURE AWARD グランプリ。09年日事連建築賞優秀賞。11年第18回空間デザインコンペティション最優秀賞、第4回サステナブル住宅賞優秀賞。