【対談】建築家山下さん
屋仁小→赤木名中→大島高校卒業後、奄美大島を飛び出し、国内外を舞台に広く活躍する建築家・山下保博さん。
10月13日(土)から12月22日(土)まで東京・南青山のTOTOギャラリー・間にて
山下保博×アトリエ・天工人展 『Tomorrow――建築の冒険』を開催中の山下さんに、
しーま編集長がインタビューを敢行!山下さんの建築に対する思い、奄美への眼差しなど、島の先輩に貴重なお話を聞かせていただきました。
編集長:山下さんは土やガラスブロックを構造体とするなど、次々と挑戦的な建築をつくり続けていらっしゃいます。
今回の展覧会と発売された書籍(『Tomorrow 建築の冒険』・TOTO出版、税込2,100円)は、これまでの活動を振り返るものということですが。
山下さん:今回の展覧会と書籍刊行の目的は二つあります。
ひとつは「山下の建築はわかりづらい」「もうちょっとわかりやすく見せて欲しい」と言われるので、それを整理する目的。
一般的に建築家は「モノ」(建築)をつくるけど、僕の場合は同時に「コト」として社会に伝えていこうとしています。だからわかりづらいと言われてしまう。「コト」というのは、僕自身が動き回る事で生まれる様々な出来事です。
「モノ」と「コト」がかけ合わさった時に立ち上がる建築とその周辺の空間について、パネルや模型、図版などを使って再構成しています。
もうひとつは、3.11の大震災以降東北をサポートしているのですが、建築家が次の時代(3.11以降)にどう社会とつながり還元していくのかという「新しい建築の姿」を見せたかった。この二つの目的を軸に構成しています。
編集長:山下さんは国内外で数々の受賞歴があり、幅広い活動をされています。失礼ながら今まで山下さんのことをそれほど知らずにいました。
山下さん:東京で分刻みで動いているから、島に帰ったら屋仁(笠利町)で魚釣りしかしていないからね(笑)。僕のやっている事って島ではみんな知らなくて、年に二回帰って親戚周りもするけど「保博は何してたっけ?」「え、建築」と、そんな感じ(笑)。
編集長:そもそも東京へ出たきっかけは?
山下さん:五人兄弟でアニキが東京にいたのもあって、まずは東京に行こうというのがありました。とにかく日本の中心に行きたかった。それで大学に行こうとなった時に、体を動かす事と絵を描く事が好きだったので、建築士がいいかな、と思いました。美術や哲学、文学などをベースに総体として表現できる建築に魅力を感じました。
その後大学院を卒業。つらーい修行時代を経て31歳で独立したものの、しばらくは食べられなかったですね。
編集長:苦労されたんですね。
山下さん:全てが苦労でした。親のコネもないし、島から出てきた自分には何もない。とにかく人と同じ事をやっていてはダメだと。今でも朝から夜まで建築のことばかり考えているけど、もう二度としたくないような苦労を人の何倍もしました。
でも、何でも一番が好きだからとにかく世界一を目指したかった。島から出て来て東京に来た時に、ああ、こんだけ世の中広いんだなと思って、さらに海外に行くと、ああ、地球ってこんだけ広いんだなと。島から出て来たら、東京も世界も一緒だと感じました。
編集長:山下さんの建築に奄美で生まれ育った影響はありますか。
山下さん:うーん。モノとして直接「奄美」が入っている建築は正直あまりないです。でも、「マクロとミクロは同列」という、僕が建築を考える際のコンセプト・本質の部分は奄美から受け取っています。
奄美は琉球と薩摩と日本とアメリカと…何度も脅かされた歴史があります。奄美は虐げられて来たけれど、逆に言えば統治をするトップたちとの距離をはかれ、常に一歩引いたニュートラルな状態をつくれるというプラスの面もあります。
それから、島が素材に恵まれているという点は大きいですね。太陽、緑、水など、原点の素材が身近にある幸せ。僕が素材の開発を突き詰めているのも、そこから来ているのかも知れません。このふたつが僕が奄美から貰った幸せかな。
ただ、建築でことさら「奄美」を表現する必要はないと思っていて、エチオピアではエチオピアの建築表現、東京では東京の、その場に適した建築表現があるはずです。その中に自分が奄美から受け取ったものが自然に含まれていれば、それでいいと思っています。
編集長:現在の奄美に対しての距離感や思いは。
山下さん:3.11以降、自分が死んでしまったらどうするかを考えた時に、島に対して何が出来るか、島に何かを残していきたい、と東北へのサポートを通じて感じました。だから今までより島に近づこうと思ったんです。ずっと東京を拠点に活動をしてきたけれど、去年あたりから九州大学の非常勤講師などもやりながら、徐々に島と繋がっていこうと考えています。まだまだ具体的にはこれからだけど、今後僕がやりたい事の中には、奄美のまちづくりを入れています。
編集長:今、奄美について思う事、島の若い人に向けて伝えたい事はありますか。
山下さん:奄美の人たちは自分の島の良さをある程度は認識していると思うけれど、やはり島の外に出て、もっともっと認識して欲しいとの思いはありますね。逆に言えば、違う視点を見せてあげられるのは、僕ら島人でありながら島にいない人間の使命だと考えています。
だから、石垣や高倉など島のモノからいい部分を抽出して、そこから奄美に対して何かを表現していきたい。できれば島の人たちと一緒にね。島の外から球を投げるのではなく、一緒に「こんなのが島だったね」というようなものを共有したいですね。例えば砂浜を復活させようとか、それはあえて「建築」ではないのかもしれません。
島の若手クリエイター組織「Shall We Design(SWD)」がデザインを使って奄美をもう一度編集し直そうとしている動き、それに「あまみエフエム」の一連の活動などはスゴくいい動きだと思っています。若い人はそういう人たちからどんどん刺激を受けて、自分の持っている「特殊性」(縫い物が得意とか歌や絵が上手いとか)を自信をもって発信していくことが大事です。それらを継続的にやっていけばいいと思います。それと何事もそうですが、上手くなる秘訣はとにかく向上心を持つことでしょうね。
編集長:確かに奄美にも面白い動きが出てきていますね。最後に、生まれ育った「屋仁集落」に対する思い入れをお聞かせください。
山下さん:ベースやね。家族って何ですかって言われるのと同じ。小さな村なんだけど、面白い人が育つ場所だと言われているよね、屋仁は。そういう意味でも自分にとって屋仁は原点というか、全て。やはり家族のようなものですね。
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さすがに同じ笠利出身ということもあり、インタビューは終始和やかな雰囲気で行われました。本文にはありませんが、一連のお話の中で心に残ったのは「ローカルからグローバルへ」という話題。
ローカルな場所に根ざし、その土地で出来る事を自律的にやっている人たちは、結果的にグローバルに広がっていく。ローカルであることは強みであり、普通にやっていることを普通に見せるだけである種のグローバルへと繋がる、とのこと。
ローカルを否定してグローバルな世界へ出るのではなく、ローカルとグローバルは表裏一体であり、その境は本来曖昧で行き来自由なのではないか。これこそが山下さんのコンセプトである「ミクロとマクロは同列」という考え方のひとつなのかな、と編集長なりに頭を絞って考えました。山下さん、お忙しい中、貴重なお話をありがとうございました!
TOTO GALLERY・MA
山下保博×アトリエ・天工人展 『Tomorrow――建築の冒険』
■会期 2012年10月13日(土)~12月22日(土) ■開催時間 11:00-18:00 金曜日は19:00まで ■休館日 日曜・月曜・祝 ■入場無料
山下保博 Yasuhiro Yamashita
1960年 奄美大島・笠利町生まれ。86年芝浦工業大学大学院修了。91年山下海建築研究所設立。95年事務所名をアトリエ・天工人(てくと)に改称。99~2011年芝浦工業大学、東京大学大学院、東京理科大学、慶応義塾大学大学院にて非常勤講師。11年より九州大学非常勤講師。
主な受賞歴
2004年 ar+d award(国際新人賞)2004最優秀賞、釜山エコセンター国際設計競技1等。08年ARCHIPARCHITECTURE AWARD グランプリ。09年日事連建築賞優秀賞。11年第18回空間デザインコンペティション最優秀賞、第4回サステナブル住宅賞優秀賞。